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声明文

集団的自衛権の行使に強く反対する声明
 

 今、わたくしたちが暮らす日本は、内閣による憲法解釈の変更という手段を講じて、過去、歴代の内閣が否定してきた集団的自衛権を行使しようとしています。憲法を政府の判断で如何様にも解釈できるということは立憲主義の否定であり、自由と民主主義の破壊であります。内閣法制局長官・最高裁判所長官経験者、多くの憲法学者・法曹家の批判にも耳を貸さず、集団的自衛権について判断したわけではない「砂川判決」をもって集団的自衛権を正当化するという論理は、知性を否定し理性を喪失した暴論と言うほかはありません。しかし、こうしたことは今、突然に起こったことではありません。

 

 日本国憲法の精神を基盤に制定された教育基本法は、第1次安倍晋三内閣のもとで、2006年2月26日に改定されました。この改定により、教育基本法の前文に「公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する」という文言が記され、さらに第2条に、教育の目的として愛国心の養成とともに「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」が明記されました。

 

 そして、自由民主党が2012年4月に発表した「日本国憲法改正草案」には、自衛隊を国防軍と改組することがうたわれ、国防軍の活動内容として、第9条第2項の3に「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」と記されるに至りました。さらに、第12条では国民の基本的人権に関して、「国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」と戒められています。

 

 改定教育基本法と憲法改正草案は連動するものであり、両者の条文には「公共の精神」「公の秩序」「公益」と、「公」という言葉が多用されていることに気づきます。わたくしたちは、この「公」とはまさに「国家の利益」そのものを指すと考えます。それだけではありません。安倍晋三首相に代表されるように、集団的自衛権を行使しようとするひとびとは、南京大虐殺やいわゆる「従軍慰安婦」を教科書に記載することに反対し、虐殺は中国の捏造であるとか日本政府や日本軍による「慰安婦」の強制はなかったという発言を繰り返しています。8月14日に発表された安倍首相の「戦後70年談話」は、首相自らの言葉で侵略と植民地支配への反省・謝罪はせず、むしろ、戦争は已むを得なかったものとみなし、今後の反省・謝罪を否定するものでした。

 

 なぜ、安倍首相は日本の戦争を正当化するのでしょうか。それは、戦争こそが国益の最大の発揚の場であるからです。まさに彼が求める「公」に対する価値観とは、戦時に際し、国民が国家の勝利のために自己の権利、財産、生命を進んで犠牲にできる精神を意味します。そのためには、戦争は、国民の自己犠牲に値する正義でなくてはなりません。日本は、今、戦前に回帰しつつあるのではありません。戦時中に回帰しつつあるのです。今、安倍首相は徴兵制は憲法が否定した苦役に当るから導入しないと言っておりますが、内閣の判断で憲法解釈を自由に変えられる先例が作られた以上、今後、徴兵制は苦役ではないと憲法解釈を変更して導入することも可能です。

 

 集団的自衛権の行使は、「自衛」とは言いつつも、実態は日本の安全保障とはまったく関わりなく、アメリカの世界規模の軍事行動に追随することを目的とするものです。それにより日本が戦争に巻き込まれるのではなく、日本がアメリカと共に戦争を惹き起こすことになります。自衛隊員が戦死するだけではなく、自衛隊員が他国民を殺害することになるのです。

 

 以上の認識により、わたくしたちは、すべての生命は神様に祝福されたもので平等に尊いとする敬和学園大学のキリスト教主義教育に携わる教育者・研究者・職員として、知性と理性を失い、立憲主義を否定する政権の下における、教え子を戦争に導く集団的自衛権の行使と、それを可能とするすべての法律の施行に強く反対いたします。                      

 

 

2015年9月10日

敬和学園大学教職員有志

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